苦手な展開について
小説でも漫画でも物語を読むことは好きだが、どうしても苦手な展開というものがある。
悪役は苦手ではない。むしろ、社会性によって心の奥底にしまわれている醜い心を代弁してくれていると思えることも多く、主役以上に感情移入をして見てしまうことがあるくらいだ。
だが、どうしても受け付けないのは、倫理に反した行いをしたキャラが何の咎めも受けないことである。
「何でこんなことをしたキャラが全く制裁を受けていないんだ?」
「何事もなかったかのように主人公と親しくしているけど主人公を苦境に追いやったのはコイツでは?」
こういった感想を抱かせる展開が来ると、物語自体に感情移入が出来なくなる。
さらに不快感を覚えるのは、そういうキャラがほかのキャラへ説教をする展開だ。
いやお前他人のこととやかく言えるほど立派な人間ではないだろ!と言いたくなるキャラが他のキャラに説教をして、しかもそれが物語中で肯定的に描かれでもしていたら目も当てられない。
こういう展開があった場合、私は、こんなヤツに説教されて可哀想に…と説教されたキャラに必要以上に肩入れしてしまうので、結果として作者の意図とは反する解釈で読んでしまっているのだろうなと思う。
『二月の勝者』に思う
久しぶりに『二月の勝者』を読み返して、中学受験生だった頃を懐かしく思い出した。
特に自分の心を打ったのはカリスマ塾講師・黒木蔵人が成績優秀な生徒・花恋に向かって言った以下の台詞である。
「なんで『勉強ができる』て特技は『リレー選手になれた』とか『合唱コンクールでピアノ弾いた』とかと同じ感じでほめてもらえないんだろうね?」
『二月の勝者』という漫画を信じることに決めた忘れがたい台詞である。
中学受験というものはとかく悪者扱いされがちだ。小さな子供が勉強漬けなんてかわいそう、子どもには他にもっとやることがあるはずだ、ガリ勉は人間としてつまらない…そんな風に言われることが多い。勉強は苦行であり人格形成に悪影響を与えるものという見方が幅をきかせている。
だが、新しいことを学ぶことが好きで、学校の勉強では満足できず、塾で勉強することを遊びのように楽しむ人間もいるのだ。黒木の言う通り、なぜ「勉強ができる」という特技だけは冷ややかな目で見られるのだろう。スポーツの好きな子がスポーツで頑張るように、勉強の好きな子が勉強で頑張ることもあってよいはずなのだ。
かくいう私がそういう人間だった。花恋ほど優秀ではなかったが勉強は得意なほうだったし、新しいことを学ぶことも好きだった。だが、通っていた小学校はスポーツの盛んな学校であったため、運動能力がそのままクラス内ヒエラルキーになり、逆に勉強という特技は評価の内に入らない傾向があった。そのため、運動が苦手で勉強が得意だった私にはとかく居心地が悪かった。6歳から12歳までをそう悪くなかったなと思えるのは他ならぬ中学受験塾のおかげである。塾では勉強が出来るという特技が尊敬され、知的好奇心のあることは「変人」ではなく「できる子」の証として受け止めてもらえた。浮かないために、変人扱いされないために、知的好奇心を隠す必要もなかった。中学受験塾は私を私のままでいさせてくれた場所であった。
自分が中学受験生だったころの気持ちを思い出させてくれたこの台詞で、私はこの漫画を、黒木先生の旅路を追い続けることに決めたのだった。
近況について
最近碌な事がないです。
別部署の人がミーティングで言ってたことを確認しようとチャットしたら、お前のミスだの確認不足だの上司に別部署の人のいるチャットルームで公開説教を食らう
お客さんと会議の日程調整しようとチャットしたら電話でいいだろと上司がまたチャットルームで横槍を入れてくる
メールの送付ミスったら上司から長々と説教チャットが来る
フルコンボだドン!じゃねぇんだわ
そもそも1ヶ月以上先の出来事について、口頭で打ち合わせしたことの確認をして何が悪いのか。
打ち合わせ後すぐ確認しろと言うことらしいが、1ヶ月以上先の出来事について1日置いて確認することで何か致命的な事が起こるとでもいうのか。
日程調整なんて電話でもチャットでも調整できりゃ自由だろうが。
そもそも公開チャットで説教すんなや個別チャットで言え
まあメールミスったのはミスなんだが、ゆーてすぐに訂正メール送ったしそれで何かあったわけでも無いんだよな
ミスって致命的なものと普通にリカバリ効くし大した影響ないこともあるよな?
別に影響ないことまで致命的なことであるかのように言ってくる不愉快な人々に囲まれて働いてると、これ以上無いほどやる気が削がれるな
ちなみに上手く出来たことは無反応なので、100点でなければ0点と考える人たちのようで……
クソな現実は趣味で誤魔化すしか無い。
そろそろ趣味について書いていこうか。
生きるための娯楽について
色々あってブログなんて書く気力が残っておらず、長らく放置していた。
任せるという割に適当な茶々を入れて引っ掻き回してくる上司、先が不安になる出来事の数々、明るい気持ちになれることが少なくその場しのぎの楽しみで自分をごまかしながら生きるしかなかったのがここ1か月である。
友人と遊んだり好きなアニメや漫画を楽しんだり、こういうちょっとした楽しみがなければ自分はどうなっていたか想像がつかない。
娯楽は贅沢品ではなく生きるために不可欠なものなのだろうと思う。
先の記事で述べたうちの三姉妹の派生作品にはずいぶん助けられた。最近はアニメポケモンも毎週の楽しみとなっている。
メンタルが疲弊することが多いので明るい気持ちで楽しめる作品がありがたい。考えさせられる重い作品は疲れた心では受け止められない。
アニメポケモンについても追々書いていこうと思う。
それでは。
『うちの三姉妹』について
私は学生の頃、松本ぷりっつ氏のエッセイ漫画『うちの三姉妹』のファンだった。
おっぺけな長女フーちゃん、自由人の次女スーちゃん、バッチコイな三女チーちゃんの三人が織りなすドタバタ劇を大いに楽しませてもらった記憶がある。
完結後は読み返すことも関連作品を追うこともなく過ごしていたのだが、数年前、久々にぷりっつ氏のブログを覗いたことがきっかけで、再びファンになった。
三姉妹も大きくなったなあと親戚のおばさんのような感慨に浸りつつ、根本的な性格は変わっていなさそうなことに安心感のようなものを覚えた。
それからは時々ブログを見るようになった。
特に気が滅入った時や現実に行き詰ったときなどは、すがるように覗きに行ったものである。
一貫して明るく楽しいエッセイ漫画で、深刻な現実や強い思想が見えることもないので、しばしの間現実を忘れるのにうってつけだったのだ。
私はもともと悩みがちな性格だったこともあり、何度も心を励ましてもらった。社会人生活の中で行き詰ることも絶望感を抱くことも多々あったが、そのたびに暗い要素が何もないぷりっつ氏の作品に元気をもらってきた。
今でもそれは続いている。
『うちの三姉妹』がこの世にあってくれてよかった、完結後も三姉妹の話を描いてくれてよかったとつくづく思う。
今後も一家のほのぼのとした楽しい日常が続くよう祈っている。フーちゃん結婚しましたとか言われたら泣くかも…笑
アジサイが美しい季節です

散歩って良いですね。

